1960年代の表記報告書を紹介します


by tokubetubunkakai
「国民教育運動特別分科会報告書」紹介

このブログは、1960年代にだされた「国民教育運動特別分科会報告書」をみなさんにお読みいただけるようにするものです。

 第1回報告書は、1964年(特別分科会開催は、1965年1月23.24日)
 第2回報告書は、1965年(特別分科会開催は、1966年 月     日)
 第3回報告書は、1966年(特別分科会開催は、1967年2月14.15日)

 タイプ印刷の読みにくい原稿をアップしながら、この紹介も書き足していきたいと思います
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# by tokubetubunkakai | 2015-11-14 19:27
1964年
「国民教育運動特別分科会報告書」

 一九六五年、一月二三日、二四日の二日間にわたって、高教組、和教組両教文部主催の 国民教育運動特別分科会がもたれ、和歌山県の国民教育運動の当面する様々な問題が論議された。この討議内容をまとめ、文書報告をする仕事が、両教文部長(岡本、富永)と北叉、山田、西の五人に委ねられた。数回におよぶ総括会議をもったが、途中で、岡本教文部長が病気でたおれ、仕事が、意外に遅れてしまった。
 この報告書は、分科会で討論を忠実に追う形をとらず、次の三つの観点からまとめた。
 第一は、現在、和歌山県の教育にかけられている権力側の攻撃の実態と特徴は何か。
第二は、この攻撃のなかで、どのような民主的教育実践や、教育運動がすゝめられているか。
第三は、以上の実態を総括し、教師の当面する任務、国民教育運動をどう考えたらよいのか。
 以下、各章はこの順序で構成されている。 
しかし、権力側の攻撃とそれに対する抵抗運動は現実には不可分の関係にあるいで、とくに第一章第二章は、一応叙述の重点のおきどころの相違というぐらいに理解してほしい。
一、 「教育正常化」の名による県下教育に加えられている攻撃の 実態と特徴教育をめぐる支配層の攻撃は、巧妙さと同時に、その鋭さを一段と強めてきている。特別分科会における学校現場からの報告は、今日の攻撃諸特徴をまざまざとわれわれに示して
くれた。いま、数多くの報告の中から、最も特徴的なものをまとめたい。

 (1)「祝日登校」をめぐる動きとその闘い

一九六四年五月、光定教育長は、教育反動に叱咤激励されて、「日本民族にふさわしい
教育を行うために、祝日に登校し、生徒、教員で挙式し、日の丸をかかげ、君が代を斉唱したい」旨の発表を行なつた。それから数ヵ月を置いて、十月末、県教委は、何らの正式な協議を行なわないまゝに、登校することを命令した。同時に「祝日行事等に関する資料」を配布した。
 この祝日登校の問題は、突如として、この時点であらわれたものではない。一九六三年以来、「勤評、特昇」を実施しようとして挫折した県教委は、勤評、学テ体制の、より一層の強化をめざし、同年十二月には、教育長通達で、突然、県立学校に、六四年一月一日から、毎日『日の丸』をかかげることを強制してきた。この「日の丸」掲揚で味をしめた県教委は、今度は全国に先がけて、元日登校を通達し、得点かせぎをしようとしたのである。ところが元日登校の命令がでるや、「元日登校指示の取消を要求する」抗議署名が、大多数の教師のなかでかで起り、校長会のなかでも、県教委にたいして、勤評闘争以来、久しぶりに、抗議発言がなされるという県教委の予想しない事態がおこってきた。ある校長は、勤評闘争をふりかえりつゝ、「和歌山県をふたたび、全国のモルモットにしたくない」と訴えていたし、またある校長は「このような重要な問題を、教育長の口頭通達でやるということは、戦前にもなかった。」といっている。
 この情勢に驚いた県教委は、「元日登校は決して強制ではない。あくまでも自由であり、要望である。」と訂正発表をせざるをえなくなつた。
 職場では「正月ぐらいは、ゆっくり休もう。」
「憲法に保障された権利のなしくづしである。」
「軍国主義復活の道筋である。」などの議論を通して大多数の教師が団結することができた。六〇才になった一教師が「このやり方は戦前と同じだ。戦争への道である。」と強く指摘された言葉は、非常に印象的であったと報告されている。
 生徒たちは、この闘いのなかで、能研テスト反対、原水禁参加、京都における高較生部落研への参加、などの自主的活動の参加経験を基礎にして、「祝日反対」のたたかいを展開した。「血の丸、日の丸反対」という戦争反対の意思を表明して、十一月から十二月にかけて、和歌山市を中心に、「祝日登校反対実行委員会」を結成し、自主的な反対活動を展開した。ビラくばり、ステッカーはり、生徒会、HRへの問題提起などの、多彩な反対連動が行なわれた。 このよう生徒の自主的な活動が全県下で展開された。ある学校では、始業式に、生徒が元日登校について、校長に質問を集中し、終業式が生徒総会に切りかえられるというようなこともあつた。
 このようなたたかいの結果、祝日登校を拒否した生徒は九一%、教師七〇%という成果をあげ、和歌山県で、軍国主義教育への突破口を開こうとした反動権力の意図を、打破ることができた。
 しかし、光定教育長は、この祝日登校の意義について、「戦後の日本の教育は、占領政策のひずみを、そのまゝ受け継ぎ、白の丸を追放し、国民として当然祝うべき国民の祝日を無意味に過ごし、愛国心を教育することをはばかつている。私は勇気をもつて、道徳教育のよりどころを、正しい民族意識の形成にもとめ、無視された、日の丸、国民の祝日を、教育のなかで、正しく位置づけたいと願っている。」とのべている。祝日登校の問題は、この教育長の発言にもある通り、単なる和歌山県の思いつきではなく、軍国主義、帝国主義復活の日本の道行きと深いつながりをもちながら、うち出されてきているものであることが明らかである。

 (2) 学力向上モデル地区  ―特に吉備地区における問題について―


 県教委が、教職員にたいする管理体制のより一層の強化をねらって、香川、愛媛の両県の教育事情の視察に出発したのは、一九六四年の始めのことであつた。こ山視察の結果、県教委は、愛媛が歩んだ道と全く同じ道を歩むことをきめ、同年四月、指定期間、一カ年間の「学力向上モデル地区」七ヶ町村を指定した。(かつらぎ町、打田町、美里町、吉備町、美浜町、古座町、大塔付)
 吉備町では、六四年の六月頃、教育長が、「県の五万円の補助金がほしいから、指定を
とってきた。」 「県のいいなりになるのではなく、吉備町独自の研究を行うのである。」
といって学力向上モデル地区の本質的意義を かくしつつ、この指定をうけることになつた。
夏休み前に、このための対策委員会を、地教委、校長、PTA、教頭、非組合員で構成し、
そのなかに、教科主任部会、学年主任部会、家庭、社会教育部会(これには、青年団・官制民間団体→即ち地域の反動ボス参加)の専門部会がもたれ、学力向上という言集をテコにしながら、管理者と地域の反動ボスが一体となって、教師への支配網を作りあげていった。
 予算としては、県からの五万円と町からの五万円が補助され、これらは報告者の内容によるという条件がついている。
 こうした体制を作りあげ、七月二八日に研究総会が開かれ、・八月二四日に第二回目、九月十六日には、第三回目が比良開かれた。第三回目の研究総会には、大阪教育研究所長をまねき、午前中は、学力テストの研究ということで、臨時休校として、田殿小学校で開いた。講演は「学力テストのねらいとその活用について」という話で、誤答率、正答率をたしそれでグラフを作り、自校と他校、地域と全国との比較のしかたをのべ、徹とうてつび「学力テスト」の処理方法を説明した。午後は、地域の父母を集めて講演を行ない、「学力テスト以外に学力をはかる方法はない。しっかり学力をあげるための研究を教師にしてもらって、学力を高めてもらいたい。」「学力のあからないのは教師が悪い。学力向上は、教師の指導力にかかっている。教育設備の悪いはなれ小島でも、よい成積をあげている。それはけだし、ごらく設備などがないから、教師が教育に全エネルギーをつきこむことができたからであろう。」などとあじり、父母を教育反動の側に集めることをねらった。又、討議のなかで、一教師が、″学力とは何か″と尋ねたところ、ある校長は、「学力が何かわからないでよく教師がつとまるな」といい、「学力とは指導要領に示された内容である。」と答えた。研究総会には、単に父母たけを集めるだけでなく、県教委、指導主事、郡指導主事全員、PTA役員、青年団、娠人団体役員、町長、地教委までが出席してきていることに、この問題の重要なねらいがあらわれている。
 この体制の中で、管理職は、お互に比較検討をし、毎年続けていきたいといいだしてきた。職場は、暗く、非組合員は、一生懸命にその仕事をやり、真の学力とは何か、というような、教育論議は起らず、組合としても、現在どうしてよいか分らない状態である。職場における団結の弱さと、それをとりまく、地域反動の組織化のなかで、これに対するたたかいは、非常に困難な面を含んでいる。
 県下七つの指定された町村特徴をつかんでみると、組合脱退者が多い地区、脱退者は
少なくても、組合の執行休制が確立されていない地区、地教委が地方権力やボスと結びつき、無茶なことでもおしきれる地区、に集中的にあらわれており、支配層の学力体制強化の拠点として設定してきていることが明らかである。吉備町の実態報告をした教師は、次のようなことをいっている。
 学力向上モデル地区は、いかれぱなしである。愛媛の話をきいたが、ハンで押したように同じだ、違うのは特昇がないだけである。いま学力、学力といわれたら、どこの職場でも、どうにもならんのと違うか。教育の問題を真剣に考え、教師として胸をはって、私はこういう教育をしている。これをするには、こんな邪魔があるのだということがいえなくては、どうにもしようかないのではないかのか。県教委は、六五年度には、全県モデル指定をめざして、県下にアミの目のように拡げる方向をうちだしている。つまり前年の指定地区は、三カ年の継続研究をすゝめる一方、三市と四高校を新たに指定し、(一市は紀北、紀中、紀南から各一市、高校は三地区各一校と職業科高校一校)小・中・高にまたがる全県的な研究指定を完成させる計画をたてゝいる。

 (3)竜神地区における権力の露骨な攻撃とこれにたいする闘い

一九六四年の夏開かれた日本母親大会に参加した竜神地区の婦人教師や、お母さんたち
が、昨年の八月二十九日、地域で報告集会をもった。
 その席上、「脱脂ミルクは子供の健康によくないこと、生牛乳の方がよい」ということ
が、問題になつたことが報告された。この報告を聞いた一父兄が「女の先生が、脱脂ミルクに反対せよ、といっているが、あれはええのかどうか もっと女の先生を監視しなければならん」と地教委に連絡した。
 この結果、地教委は校長を通して、その調査を命令した。
 ある校長は、「公務員が、国家の政策に反対する会に出席するのは望ましくないから、
いかんようにせよ」と娠人教師に圧力をかけてきた。
 九月九日、第2回目の母数大会報告集会とあわせて、原水禁大会の報告集会をもった。
この第二回目の報告集会をめぐって、校長は、地教委に呼びだされ、「九月九日の地域報告会に参加した先生について、厳重に注意せよ」という命令が出された。このような命令にたいして組合は、地教委との交渉をもったところ、そのなかで、「夜の会合でも校長にとどけよ」とか、「今、日本の政治をとっているのは自民党である。だから自民党は、国民全体の支援をうけているのだ。教育公務員として、国民全体に奉仕しなければならないのだという点から、自民党の政策に反対することは、まちがっている。」というような言葉までとびたしてきた。
 九月十四日になって、校長から、一人一人の教帥に、「お前は九月九日の会議にいった
のか。どういう目的でいったのか。そういう会議にはいかれんと、教育長からおたっしがあったのに、又いったか。もういかんようにせよ」と圧力をかけてきた。
 こうした経過の中で、組合は、地域集会をもちつゝ、この露骨な権利侵害、職権乱用にたいしてたたかいを展閲していった。校長にたいしては、「職権乱用のことばを発言したのだから、この事実について、署名捺印してくれ」と要求し、遂に署名捺印をさせた。しかし校長たちは、この教師のたたかいを切りくずすために、父兄会を開いたり、或は朝礼で生徒に「脱脂ミルクは、アメリカでも日本に売りたくないものです。それを頭をさげて、わけてもらっているのです。腹痛のおこるのは、飲みかたがわるいからだ。腹が痛くなったり、下痢をしたりするのは、パンをたべ、牛乳を飲み、パン、牛乳をという順にたべるとよい。」と話をしたりした。
 九月二十五日、権力側は、PTAをつかってぬきうち的に臨時総会を一方的にひらいた。
教委は、「無責任なことをいうこの人たちより、わたしを信じて下さい。教委側を信
じて下さい。」とアッピールをし、十月七日、上山路で連合PTA主催のミルク研究
会がもたれ、県教委の係官が出席して、「脱脂ミルクはよいものだ」と講演した。父兄たちは、教師たちの脱脂ミルクについての熱心な説明のなかから「脱脂ミルクには問題があるなあ。」と疑問をもち、この結果「県としても、生牛乳にかえてゆくように、今一生懸命やっているのだ」と答えざるをえない立場に追いこむことかできた。ミルク斗争に端を発した。権利弾圧は、今日の支配者の意図を露骨にあらわしたものといえる。

(4) 盲学校差別事件について   ― 敷地移転反対闘争】を中心として ― 

 和歌山県庁の正面にある盲学校が、大坂との県境に近い、紀伊地区へ移転することを、県教委が、一方的に通知してきたのは、一九六三年のことであつた。
 県教委は、「設備がよくなる、空気がよい、交通事故が少くなる」などの理由をあげて、その移転の正当性を強調してきた。
 しかし、盲人は、文化の発展や、社会の動きを耳で知る以外になく、このような、へき地にとじこめることは、盲人にとって、牢獄と同じ結果をもたらすことになる。たから盲学校の生徒達は、「へき地であるため、講演会や、音楽会などをきゝに行けなくなる。「医者のない土地である。」 「水道のない土地であり、水質もよくないため、一緒に移転するはずだった職業訓練所がとりやめた土地である。」 「実習に必要なお客さんが少くる。」 「寮母さんが通勤に困る。今でも労働強化で、なり手が少ないのに、一層少なくなる。」「盲人の先生が通勤しにくゝなる。」というような無数の要求をたして、反対をしてきた。
 けれども、県当局や、学校長の態度は、極めて強硬で、移転に反対した教員は配転させ、たたかってきた生徒会の執行部に、圧力を加えてやめさせるばかりか、生徒をスパイにしたてて送りこむようなことまで、あえてやってきたしこんなに移転問題で、県が強行してくるのは、現在の敷地をうりはらつて、移転先の敷地へ移ることによって、建築費をさしひいても、一億円あまりもうけられるということにあり、特殊教育振興とは、真赤なうそである。その証拠に、六三年四月に、ハリ、キュウらの先生が転任したあと、県当局は盲人として最も重要な教科である、その先生の補充をしないまゝ、八カ月も放置しておったのである。そのほか、不自由な子に、あたたかい賜りものを、といつて寄糖された、洗濯機も子どもたちほ使わせてもらえず、「水で洗つた方が修養になる」といわれたり、「部屋会の時に琴っお菓子をやめて英語山テキストを買つて下さい」というと、「金のかかる教育はやめとけ」とどなりつけられたり、「お前たちは、世の中お世話になつているのだから、要求などしないで、感謝しなさい」といわれ、要求を出すと、「退寮させるぞ」とおどされ、また、実際三名の生徒が退寮させられるというひどい事件がおこつている。盲学校の生徒たちは、こうした問題について、多くの人に訴え、明らかにして、その運動の輪をひろげてきたしこの運動の結果、教組、県職、地評などを中心として、身体障害者を守る共斗会議の結成をみることができた。また六四年度の生徒会の選挙で、この問題の中心になつてたたかつてきた生徒が、委員長に当選することができた。


  (5) その他の情勢の簡単な総括


(イ)勤務評定強行実施以後、権力側が一貫して追及してきている組破壊は、現在もしつように続けられている。それは、直接生活に影響をあたえる人事異動を武器として、教師をおどし、勤務評定書による、特別昇給実施をちらつかせて、団結を破かいしてきている。加えるに、新しく採用される教師や、小、中より高校教師に転出する場合に、組合へ加入しないことを、条件とするようなことまで、本人に強制してきている。
 勤評体制のこのような深化のなかで、教師の労働強化がすすみ日高にあったように、病気になっても休養をとらないまま仕事を続け、病勢の悪化で、入院後直ちに死亡するというような事例も発生している。また昨年十一月中の切迫流産した婦人教師が二十数名に及ぶというゆゆしい事態もおこっている。
(ロ)警察権力の学園侵入の度合いは、ますます深まってきている。特に非行問題を理由にして、補導センターを通して、警察権力への一体化の要求はきびしく、学校と教師は非行問題をめぐって、警察行政の下請機関に転化される情勢がでてきている。
(ハ)自主的な教育研究に対する圧迫は、官制教育研究の強引な押しつけと相まって、強化されてきている。全県にわたる道徳教育の研修会の押しつけ、各種研究会のおしつけ、研究会の修了書、有田郡で開かれた、人間尊重教育方針による研究会の開催、橋本市にみられる、校長、教頭を中心とする教育研究団体の結成の意図など、教師の教育研究の自由を根こそぎ奪いさって、「教師のロボット化」をねらう動きが、一層はげしくなり、権力の攻げきの中心目標におかれている。
(ニ)テスト体制―差別体制から生れる、児童、生徒と教師の疎外の状況は、教師に対する、信用をなくし、非行問題の主要な原因となっており、このような状況を反映して、「学校の秩序と規律の強化」ということで、その問題をすりかえ、強制的に、名札をつけさせたり、頭の毛を刈らせたり、服装検査をするなどの方法で、児童、生徒の自由な行動な行動が、つみとられようとしてきている。
 (ホ) こてき隊、バトン・トワレーズ、海草少年団、スポーツ少年団など、権力による近代的な装いをこらした、青少年の組織化が、着々と進行し、その指導体勢ができあがりつゝある一方、祝日登校と、日の丸掲揚、自衛隊の朝霧会なる名称による、高校生の組織化など、軍国主義復活の道行きは、一層その露骨さを加えてきている。
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# by tokubetubunkakai | 2015-11-14 18:02

ニ、抵抗の教育運動

1964年
「国民教育運動特別分科会報告書」つづき2


ニ、抵抗の教育運動  

―主として御坊小学校の職場実践を中心として― 

 これまで述べてきたように、ますますきびしさをくわえた最近の生活と教育の諸条件のもとで、各地域や職場では、さまざまなかたちの運動や実践がとりくまれてきた。多様な権力側の攻撃に対応する民族的、民主的な運動、たとえば、祝日登校問題をめぐる実践的、理論的対決、学力向上モデル地区による権力行政への対決、賃金闘争、日宿直拒否闘争およびその他権利要求の諸闘争、勤評、学テ体制の露骨なあらわれに対するさまざまな抵抗、青少年補導、ないしは、非行対策の名をかたる行政の本資を解明する運動など、さまざまな運動を、われわれは経験してきた。つまり、今日の権力行政に直面して、教師をはじめとするすべての国民の生活と権利を守り、発展させるための、多様な運動に、われわれはとりくんできた。これらの広範な経験をさゝえとして、さらに未来にかかわって、民族的、民主的な教育を創造し、発展させるための、運動と実践の萌芽を、われわれは今日、自覚的にとらえることが可能となつた。その典型を、われわれは、御坊小学校の実践をとおして学んだ。御坊小学校の貴重な経験を、われわれは、和歌山県の教育運動の歴史の中に、正しく位置づけ、さらに発展させ、これを定着させる努力をしていかなければならない。

 (1) 御坊小学枚の教育実践

 御坊小学校の最近の経験、とくに、学テ闘争と、通知簿改革(五段階評価の廃止)は、和歌山県下のすべての民主的な教師によっていちじるしく注目されに。それらは、勤評、学テ体制、教育正常化の攻撃などで特徴づけられる、最近の教育をめぐる諸矛盾に、勇敢にとりくみ、困難な条件のもとで、一定の民主的な成果をかくとくしているからである。しかし、これら御坊小学校における、すぐれた教育経験は、決して短時日に、自然発生的に生じたものではない。長期にわたる、しかし堅実な歩みが、学テ闘争と、通知簿闘争に結実したような御坊教育をもたらしたのである。
(イ)三七年四月のある日、夜の間に職員室のひきだしから、二〇〇円がぬすまれた。そのために、五〇名の全職員が警察に指紋をとられる寸前までいった。このとき一人の教師が、指紋をそんなに簡単にとらしていいものか、これは、人権問題やないか、と発言する、これがきっかけとなって、指紋問題は、全職員の討議となり、指紋をとらせないことをきめた。御坊小学校では、この経験について、「教育者の人権は、かろうじて守られた」 といっている。
 「こんな大きな学校で、職場で、どうして盗難のある毎に、全職員が、かんたんに指紋をとられてきたのか、防犯に協力という美名のもとに、教師の人権というものが侵されていないのか。それでいて、県下で大きい未解放部落をかかえている学校の責善教育が確立されるのか。地教委や学校の責任者が、警察権力に、何奴そんな義理だてをしなければならないのか。この事実を県下に公表しろ  一等々核を中心とした発言が、全職員の強い指紋拒否の意志表示となつた。今年4月一日に新任してきた校長さえ、今までのことが不思議に思つたくらいである。こうした全職員の強固な統一は、御坊警察署を未曾有の譲歩にいたらしめ、誰一人の指紋をとることを許さなかった。 これはもっとも意義深いたたかいのスタートであり、御坊小学校の一大変革の第一歩であった。」
 このさゝやかな経験は、御坊小学校の職場史を画する貴重な一頁となつた。それ以来、今日まで、数えられるだけで、二〇数件の重要問題が、職場の全員の討議となり、そのながで、一歩一歩職場の民主的実践の方向がかためられてきた。たとえば、天皇送迎のために、修学旅行がバス旅行に変更させられたり、天皇送迎にふりまわされて、失対ダンプの事故が放置された問題、日本脳炎予防注射の代金をめぐる問題、カンユ取扱廃止問題、子どもの交通整理廃止問題、地域の教育要求についての問題(たとえば、紀小竹地区では、生活と教育の要求が組織されている)非行とりあつかいの問題、特殊学級方針の問題、責善教育方針の問題、校舎改築費積立貯金廃止問題、用務員の生活と権利の問題、などなど多種多様な生活要求に根ざした討論がまきおこされた。このなかで、御坊小学校の教師集団は、おどろくほどの前進をかちとってきた。どんなささやかな問題も、それをみんなの問題にしていくことによって、可能な限り、高い行動を全体の意志でかちとる努力がつみあげられてきた。
(ロ)このような前史をふまえて、三九年に入ってからむ御坊小学校の実践は、飛躍的な前進をとげた。 その頂点が、学テと通知簿についての偉大な闘争である。御坊の教、師のいうように、「これらは、一見かんたんなようだが根は深い。 それは学力とは何か、教育とは何かにせまる重要な問題であつた」のである。
 六月の学テにむけて、五、六年の教師は、学テを受けないという話合いをした。しかし、御坊地区としては、採点事務拒否、学籍無記入で、高校入試に用いないが、テスター拒否はしないということであったので、いろいろ話しあつた結果、地区の線までひきさがった。結局、氏名、番号、男女別等を記入しないで、しかも学級別もゴチャマゼにした。「これは 単なる職場内だけの抵抗としてでなく、全国一斉に強行された、算数、国語というあの二時間テストを通して、子どもたちや父母たちの問題としても大きな影響をもつ闘いであった。」
 さらに子どもたちをよりわけ、ふるいわけてきた.通知票の問題が、長期にわたって検討され、ついに五段階評価を廃止して、「よくできる、努力してほしい」 のいずれかの評価をとることゝした。画一的な形式のもとに、日本中の子どもたちを成績競争にかりたてゝいる道具として、通知票の果している役割を、御坊小学校の教師たちは、批判的に吟味した。
 しかし、民族的、民主的教育を真におしすゝめていくための正しい評価の問題は、今後さらに検討されねばならない。
 これらのすぐれた御坊小学校の実践は、責善道徳部を中核として、責善教育の思想に依拠しながら、職場集団の水準についての、正しい見通しのもとにすゝめられてきたのであって、決して自然発生的なものではない。和歌山県の教育運動のなかで、民族の悲しみと、怒りに正しくもとづいて、未来への展望をきずきあげてきた責善教育の伝統が、御坊小学校の実践を貫ぬいている。
(ハ) 御坊教育の意義は、以上のような職場実践、あるいは、学テや通知票について闘ってきたということにとどまらないのである。そのなかで、教師も、子どもも、父母も、偉大な変革をとげつゝ、前進してきたのである。事実われわれは、御坊小学校の教師集団のなかで、体制的なテスト教帥が変革され、民族的、民王的な教育のにない手として成長しつつあることを知った。
 たとえば、六四年の御坊教育の中心は、五学年の教師集団にあった。五学年では、学期はじめの間もなく、市販のテストを全廃し、学年新聞「大地」を発行した。「大地」を中心につどう七人の教師集団は、たえず、教室における一人一人の教師の子どもに接する思想と行動を話しあい、お互の教育実践をみがきあってきた。勤評体制・テスト体制のなかで、ちぢこまっていた教師たちも、子どもたちの現実にもとづいた教育実践と教育研究を探究しはじめた。
一人の教師は、生まれて、はじめて、自分と仲間の教育実践について、この国民教育運動特別分科会で、報告をした。彼女は長い教師生活を通じて、今の集団のなかではじめて、教師のいきがいを感じていると語った。
 「二日間の会(特別分科会)をとおして、はっきりさせてもらえたことは、だれでも自分のカを存分に発揮できる。そして今まで子どものなかになかったもの、なかった力まで創り出させ、新しい自分をつくりだすことができる。そしてこの仕事が、教師の本当の仕事なのだということをあらためて知ることができました。」と彼女は「大地」に記した。さらに御坊小学校の実践のなかで、いくつもの職場内サークル、職場と地域を結ぶサークルが生れ、育ってきている。日中友好協会、部落研、職場原水協、平和委員会、中国語研究会、日朝友好協会などである。さらに最近、あらたに、教育を語る会が、組織された。 それは御坊小学校を拠点としながら、御坊小学校の経験を御坊小学校にとどめず、郡全体への広がりを予想して歩みはじめたものである。

(2) 御坊小の実践の教訓

 ところで、このような御坊小学校の実践から、われわれはなにを学ぶべきか、御坊小学校の教育実践は、われわれにどのような教訓を伝えているのだろうか。御坊小学校の教育実践の特徴、または、御坊教育の教訓として、明らかにされてきている点はつぎのような点であろう。
(イ)教育要求を生活要求の一部としてとらえしたがってまたすべて生活要求を教育の問題としても、とりあげていく観点が、つらぬかれている。だから、おくれた子ども、貧しい子ども、学習の権利や人権が無視されている子どもたちの要求を、もっとも大切にしてきた。しかも、それが組織全体で、集団的に問題にしていけるように努力がはらわれてきた。これは、教育実鼓を、教師のしごととして、大切にしながら、教育実践そのものの考え方に、積極的な意義の変更を求めている。民族的、民主的な国民の立場にたった教育の考え方、教育の思想を提起している。
(ロ) 事実をできるたけ、みんなのものにし、事実と事実が相互に関係しあっていることを、正しくとらえ、それについて、たしかめあってきた。さらに、このような観察と認識にもとづいて、ものごとは、かえていくことができるという見通しをもって、集団のなかで、お互いに自己を変革するとともに、このような見通しをもって行動できる人間を育てる教育に、力をいれてきた。したがって事実がありのまゝに正しくみんなのものになるように、まず努力がはらわれてきた。
(ハ)教師の生活や行動、子どもの生活や、学習のなかで、つきあたっている問題を、集団の問題とし、たとえ、さゝいなものでも、できるだけ、集団の問題として、ねうちのある問題を発見し、みんなで力をあわせて考え、みんなでとりくんでいけるように、努力がはらわれてきた。したがって、統一できる水準で、集団の意思を尊重してきた。
(ニ) 御坊教育は、民族的民主的な教育を創造していくにない手が、教師、子どもおよび父母の共同のカであり、とりわけ、地 域の自覚的、先進的な民主勢力を中心とした地域住民の総力であることを示している。学年新聞 「大地」の経験や、職場内サークルの発展、および御坊教育を背後からささえている地域の民主的伝統などは、御坊教育の性格を物語っている。
 このような御坊教育の特徴は、われわれの今日の教育運動、教育実践のあり方について多くの重要な問題を提起している。しかし、御坊教育が単に御坊教育としてとどまることなく、さらに持続的に、和歌山県の教育を全体として前進させていくきっかけとなるように、われわれは、より一般的な観点から、和歌山県の教育運動と、教育実践の原則として、御坊教育の経験を発展的に総括していかなければならない。
 そのための基本的な観点を特別分科会で、報告された、御坊以外の運動と実践において以下、要約してみよう。
 第一に、民族的、民主的な国民教育運動の実践を創造するために、われわれは、どのような問題を、問題としてとりあげていかなければならないかということである。
(1) 生活の事実のなかにある、子ども、父母教師に共通する(一致するとはかぎらないが)具体的な要求や、不満を問題としていかなければならない。このことは、御坊教育において、実践されてきただけではない。
(イ)海南市では、木下先生の宿直中の急死の問題を「公務災害を認めよ」という要求で、全職場の問題とし、地域の問題とし、この問題をとうして、職場の団結をつよめてきた。さらに、三短財源拠出の反対の要求に発展させ、この闘争をとおして、教師の権利意識を高めあうところまで発展した。この場合も、生活のなかの要求や不満に依拠している。
(ロ) あるいは、岸上の子ども会の実践からも、同様の教訓を得ることができる。岸上の実践の基本的な観点は、生活の事実、教育の事実のなかに、差別があることをはっきりとらえ、差別は、生活や教育の事実をかえていかなかったらとりのぞくことができないという認識である。このような観点から、十数年の長い堅実な生冶とのたたかいが実践されてきた。子どもや地域の父母の保健衛生、給食問題、子ども会、学童保育の問題など、身近な生活のなかにある要求にもとづいて、生活の事実をかえていく実践が地道に続けられてきた。
(ハ)あるいは、「那賀教育白書」の運動にも、同じような観点がつらぬかれている。「父母の願いや要求を大切にする教育がなされているか」という問題意識を基調として、地域の生活や、教育の事実を、多くむ国民にありのまゝにしらせる白書運動が展開されてきた。この白書が、地域住民によって広く倹討されるとともに、教師自身が、これによって、身近な教育現実を正しくとらえ、これにもとづいて真にすぐれた、地道な教育運動、教育実践が展開されようとしている。
(2)共通の問題であるばかりでなく、その問題をとりあげることによって、子ども、父母、教師の考え方が、正しい方向で(民族的、民主的な教育の内容にせまり、労働者としての自覚が高まり、社会の矛盾や、それをうみだしている根源があきらかになる。)変革されうるような内容を含んでいる問題をとりあげていかなければならない。

(3)民族的、民主的な教育実践を創造していくために、  

(イ)すべての子どもにわかるような学習を組織していかなければならない。
(ロ)子どもたちの生活に事実と学習とを結びつけていかなければならない。
(ハ)今日、日本民族が、おかれている立場や現状を理解させなければならない。
 そして、これらの基本的視点おもとに、和歌山県のないしは、日本の民放文化を、その伝統を継承しつゝ、未来にむけて、創造し、育てゝいくにない手として、われわれは成長しなければならない。
 第二に、これらの問題をどのようにして、みんなの問題とし、討論をすすめ、行動していくことができるかをあきらかにしなければならない。
(1)公式の会議以外のあらゆる場、あらゆる機会に、無数の討論が、長期にわたって、かわされねばならない。
(2)みんなの意見が、一致し難い状況のもとで、可能な限り、一致点を一つづゝふやしていく、つまり同を求め、異を保留する方向を確立しなければならない。
(3)集団内の民主運営を徹底させる。そのために、事実を大衆化する。
(4)原則を貫き、現実に則して、行動目標をうちたてる。原則をゆがめないことゝ同時に、地域や職場の実情、一人ひとりの教師の条件(考え方や感情も含めて)を十分考慮しなければならない。
(5)行動の過程と結果を大切にし、成果と失敗をきびしく総括し、経験として定着させる。
(6)これらのことに一貴して、背後から責任をもつ核が確立されなければならない。

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# by tokubetubunkakai | 2015-11-14 18:00
1964年
「国民教育運動特別分科会報告書」つづき3


三、 国民教育再編成の本質と国民教育運動の課題

(1) 国民教育再編成の意図と本質
 
 第一章でみてきたように、分科会では和歌山県の教育界に加えられている、権力側の組織的、思想的攻撃のいくつかの典型的な事例が出され、討議が深められた。そのなかで、これらの攻撃は、個々バラバラのもなのではなく、共通の根をもつものであり、したがって、個々バラバラに対応するのでなく、その全般的特徴をつかみ、攻撃の本質を明らかにすることが、決定的に重要であるとの指摘 がなされた。そして、討議の過程でも、一応の中間的総括が試みられたが、いまそれをふまえ、さらに報告書作成委員会のなかで討議した内容も加えてまとめてみよう。
 今日、和歌山県の教育界にあらわれている諸現象を検討して、第一にわれわれが気づくことは、それら山の現象が、きわめて大きな規模の教育改革の流れの一環だということである。小中の義務敦育段階だけでなく、後期中等教育、高等教育、就学前教育、さらには、学校教育以後の社会教育分野にわたって、教育のあらゆる分野におよぶ、いわば、国民教育再編成が、いますゝめられているということである。この国民教育再編成は、権力側にとっては、六〇年以降の新安保体制にふさわしい、教育体制の樹立の方向をめざすものであり、国民にとつては、安保体制を打破し真に独立の気概をもった、民主的、科学的な日本国民を形成しようとする、努力の過程なのであり、まさに、両者の力の矛盾、相克として、様々の教育問題が現象していると考えられる。
まず、高等教育の分野についてみれば、今次集会での山田氏(和大)の報告にも明らかなように、まず、教員養成制度を突破口として、大学制度全般を強力な国家統制のもとにおくことを意図した改革が進行している。
 昨年七月、教育職員養成審議会(会長高坂正顕)は、「教員養成のための教育課程の基準について」、を作成し、教員養成関係大学の教育内容にたいする国家統制をうちだしてきた。これは、五八年の中教審答申、六二年の教養審建議に示された教員養成制度改革山基本路=紬をより具体化したものであるが、小、中、高にたいする教育内容の国家基準化の鈷措置が、いまや大学にまでおしおよぼされようとしていることを物語るものであり、大学自冶にたいする重大な侵害挑戦といわなければならない。さきに文部省は、大学管理法を用意し、大学の人事権を制限し、国家統制のもとにおこうとしたが、全国的な反対斗争にであい、ついに法制化を一応断念せざるをえない破目においこまれたが、しかし権力は決してその意図をすてたわけでなく、今度は教育内容の統制という面から、大管法をなしくづしに実施しようとしているのである。
 また、注意しなければならないことは、大管法の基本構想を示す、中教審の「大学制度の改善について」は、今日の日本の大学に、はっきりとした格づけを行ない、学問研究を主とする大学院大学(学科―講座制の大学)と高度の専門的職業人を養成する大学(学科目制の大学)を区別し、さらに大学のなかにも、学科―学科目制の大学(和大経済学部のようなところ)と課程―学科目制の大学(和大学芸学部など、教員養成関係大学)との差別を設けている。さらにその下に短大が格づけられる。このように、下の方へランクされた大学ほど、学問研究とは、程遠い専門学校化がおしすゝめられるという、いわば、大学制度の合理化がすゝめられているのだある。
 このような動きに対して、和大学芸学部では、全国の大学に先がけて、事柄の本質を見抜き、全国の教育系大学教授会ヘアピールを送り、ことの重大さを訴え、その後も様々の払抗をこころみてきた。しかし、この問題は、必ずしも、全大学の問題とはならず、ましてや、小、中、高の組合員、さらには、全国民のものとはなっていない。
つぎに後期中等教育の分野をみてみると、今次分科会では、主として、元日登校をめぐる県教委側のうごきと、高校教員、高校生徒たちのたたかいが中心となつていたが、この問題も、今日における、後期中等教育再編成の意図ときり離して考えることはできない。              
 すべての国民が完全な後期中等教育をうける権利を有する、という考え方を基盤に、高校全入運動が和歌山県でも、ここ数年来展開されてきた。高校全入というのは、単に高校増設、学級増という量的拡張の要求につきるものではなく、今日の生産力の発展水準からみれは、すべての国民の子弟が、自然科学、社会科学、生産技術、芸術の基礎を学ぶ権利と可能性をもっているということであり、いわば、科学、技術、芸術の国民化、大衆化の要求だといわなければならない。ところが権力側は、この高校全入の思想をねじまげ、後期中等協憂い久の多様化という線をうちだしてきている。
 これは、現在の産業構造の変化にともなう労働力需要にみあって、一部エリート養成のコースと多種多様な技能者養成のコースを後期中等教育段階にもちこもうとするものである。しかも、すべての国民に後期中等教育を保障するという美名のもとに、職業訓練所、経営伝習農場、勤労青年学校、通信教育、その他各種学校といわれるものを後期中等教育の一環にくみいれ、みせかけの「中等教育の完成」をはかろうとしている。このような後期中等教育再編成の路線は、大学制度改革とも、その本質を同じくするものであり、科学的知識や、理論をもたぬ手だけの技能者を多量につくり、しかも彼らに「期待させる人間像」に示される国家主義、軍国主義の思想を徹底的にたたきこもうとするものである。元日登校問題は、その一つのあらわれとみなければならない。
 さらに、初等教育、前期中等教育という義務教育段階に目を転じよう。学力向上モデル地区に指定された吉備町における教師の苦悩は、今日における勤評・学テ体制にとるしめあげのきびしさと巧妙さを端的に象徴している。学力とは、学習指導要領の示す内容のことだ、などという非科学的な学力観をふりまわし、幼い頃から生徒たちを競争と差別のなかにまきこみ、無限の可能性をもつ人間の能力を、早くから運命的に格づてようとする教育それは、まじめな教育実践にたいする破壊行為以外のなにものでもない。学習指導要領の再改訂が日程にのぼってきているが、権力が一方的に学力とは何であるかを規定しうるという思想は、およそ、科学的研究とは無縁のものである。
 このような体制を強化するため、龍神地区の報告にもみられるように、公教育の立場、公務員の自覚なるものが、教師に一方的に強要され、教師のもつ市民権、労働基本権のハクダツがすすめられている。
また、就学前教育についての、幼稚園教育要領が出され、国家や国旗にたいする愛着を、幼児期から養うということで、日の丸、君が代が教育内容にくみこまれてきえいるし、保育要領にもとづいて、最低の労働条件のもとに苦しんでいる保母にも、観念的な再教育をすすめようとしている。
特殊教育についてみると和歌山県立盲学校の報告に示されているように、特殊教育の体系からきりはなす、隔離教育の方向がとらわれといる。これにたいする、盲学校生徒を中心とする、激しい抵抗運動は、もっとも虚げられた人たちのなかにこそ、国民を統一していく基本的な要求のあることを物語るものとうえよう。
以上は主として、学校教育の分野についてみてきたのだが、学校教育以外の社会教育の分野に目をうつしてみても、注目すべき事態の変化が進行している。昨年八月一日、和歌山県青少年総合対策本部「本部長小野知事」が発足し、各地域に地方対策本部がつくられつつある。従来、青少年問題協議会と、それに密接に結びついた青少年補助センターが、警察と一体となって、地域の青少年のとりしまり的指導にあたっていたが、今度はより規模を大きくして、自治体、警察、教委、各種団体のボス、さらには、自衛隊までが一枚加わって、地域に網の目のような恒常的監視の組織をつくろうというのである。近衛新体制のもとでの市町村常会、部落会、隣保班、隣組による、国民相互監視の機構をおもいおこすとき、われわれは、この道は何時かきた道であり、それが国民をどのような不幸へ導いたかをじっくりと考えてみる必要がある。
子ども会活動も、青年婦人の活動も、青少年対策本部という窓口一本に統一されようとしているのであって、それだけに、地域における自主的な子ども会活動、青年婦人の組織化の重要性が増大しているといえる。さもないと、学校教育は、この分野からつきくずされるであろう。その点で、岸上における長期の地道な子ども会活動の実践報告は大きな意義をもつものである。

以上、概観してきたところからも明らかなように、今日国民教育(ここで国民教育というのは、国民のための教育といった価値観をまじえない、国民全体を対象とする教育という意味)のあらゆる分野にわたる再編成がすすんでいることは疑うことのできぬ事実であるが、ではこの再編成、ないし戦後教育改革の必要ならしめている動因は一体何なのだろうか。
ある種の人達は、今日の教育が新しい生産力の発展、科学技術の進歩から立ち遅れているからだと主張している。経済審議会の人的能力開発に関する答申も、主として、この経済的技術的要因を強調し、その政治的意図を極力陰蔽する経済主義、技術主義の立場に立っている。たしかに、今日の技術革新にともなう産業構造の変化が、新しい労働力需要、人間能力の新たな開発を必要としていることは否定すべくもない。しかし、それと同時に、現在資本主義の政治的危機の深化が、教育再編成の有力な動因になっていることを見失ってはならない。
ベトナム問題に象徴される、アメリカ帝国主義の深刻な苦悩とそれと目下の同盟関係にある日本独占資本の焦燥と動揺は、世界資本主義の全般的危機の深化の端的なあらわれである。この危機の打開のために、日本独占資本は、再びアジア諸国にたいする、帝国主義的、軍国主義的侵略の道を求めている。そのために、国内的には、国家独占資本主義体制を強化し、政治、経済、教育、ぶんか、あらゆる分野における国家統制を強めている。大学制度の改革、後期中等教育の再編成、すべてその例外ではない。しかもこのことを合理化するために、権力側は「福祉国家」の幻想をふりまき、今日の国家は、国民全体の福祉を増進し、保障する機関にかわったと宣伝している。右翼社会民主主義者や、改良主義者は、これとくちぐるまをあわしたように、国家のもつ公的機能を拡大していけば、社会主義にいたるという、楽天論をぶち、国家独占資本主義を美化し、これを援助する役割をはたしている。だが、国家独占基本主義は、国民の福祉を増進するどころか、日本国民をより収奪し、戦争への道へ追いやるものであることは、今日多くの事実が物語っている。
本年一月、中教審第一九特別委員会が発表した「期待される人間像」は、今日、国家独占主義が、日本国民に期待している人間像を示すものとして注目しなければならない。それは、憲法、教育基本法にかわる新しい教育憲章制定の意図をはらむものといえる。
一読して明らかなように、「期待される人間像」をつらぬく思想は、新しいナショナズムと近代主義であろう。もっとも「祖国日本を敬愛することが、天皇を敬愛するすることと一つである」などという前近代的天皇制イデオロギー復活の側面もみられるが、根幹をなすものは、親米愛国、反共反社会主義のナショナリズムと、基本的人権を無視した、言葉だけの「人間尊重」(人間蔑視)思想であることは間違いない。前者の新しいナショナリズムは、集団主義を破壊する個人主義と結びつき、また自由主義陣営の一員としての自覚という、国際主義(コスポリタニズム)とも巧妙に結びついている。後者の「人間尊重」思想は、能力主義の徹底という形で具体化されて、差別と競争を合理化する思想的武器となっている。
和歌山県教委の出した、「人間尊重教育(同和教育)の指導資料」は、ナショナリズムの問題に、直接ふれてはいないが、和歌山版「期待される人間像」の方針として、権力の教育攻撃の思想的より所となっている。そこでは、和教組、高教組の「人尊教育批判」が明らかにしているように、
①基本的人権の尊重と、その擁護のたたかいを観念的な人間尊重にすりかえ、
②運動と教育は別だということで、民主的な教育実践と、民主運動との有機的なつながりを機械的に切断し、
③民主運動の支えを失った教師には、公務員としての自覚、公教育の立場を強要して、市民権、労働基本権を骨抜きにし、このようにしばりあげられた教師に、
④学力とは、学習指導要領の示すところだ。と権力に都合のよい教育を強制し、さいごにうまくゆかないときは、
⑤教育の成否は、一にかかって教師にある、という責任転嫁の道を用意するという実に巧みな論理が展開されている。しかもこれは、単なる机上プランでなく、現に和歌山県下の各地で、地教委、校長、地域ボスの口をかりて、教師への思想攻撃となってあらわれていることは、すでにみたところである。われわれにとって、いまこそ、これに対決しうる思想的、理論的武器をかためることが、何にもまして、重要な課題となってきている。

  (2)国民的教育運動の課題

 和歌山県の教育界に加えられている、きびしい攻撃のなかで、各地域、各職場にさまざまな抵抗運動が組織され、そこには、国民教育運動、国民教育創造の萌芽が芽ばえている。第二章でやや詳しくのべた、御坊小学校を中心とする職場実践は、その一つの典型的事例といえよう。
 国民教育運動特別分科会においても、御坊小の実践をめぐる討議にかなりの時間と比重がかけられた。では何故御坊小の実践に人々の関心があつまったのであろうか。
 勤評・学テ闘争以降の和歌山県における国民教育運動の具体的な組織過程をみると、有田地域に典型的にあらわれていたように、まず地域に各種民主団体の強力な共闘組織をつくり、この共闘を基盤として、民主的な職場実践を保障していこうという方式が支配的であった。分科会で海草から出された、「さいきんでは、教育の問題や、生徒の問題をだしても、職場はまとまらない、むしろ教師の低賃金の問題、労働強化の問題といった経済闘争、権利闘争を根幹として職場を組織していかなければならない」、という発想もこれと同じ流れに属する。
 たしかに、今日教育にかけられている攻撃が、単に教育にだけかけられている攻撃ではなく、平和運動、労働運動、婦人運動、農民運動等々にかけられてきている攻撃と本質は一つであり、根は同じであるとすれば、「教育で対決する」「子どもで勝負する」というだけでは、本当に子どもを守ることもできないし、その意味でも、地域に強力な民主勢力も結集をという主張には積極的な意義がある。
しかし、地域に強力な民主勢力の結集ができれば、おのずから学校教育が民主化され、国民教育のなかみが自然に創造されていくであろう、と考えるとしたら、それは間違っている。ましてや、地域に共闘組織がつくれるまで、しばらく教育問題、子どもの問題は棚上げしていくなどというのは決定的な誤りを含んでいる。学力向上モデル地区(吉備町)の報告をした一先生は、「自分はいままで教育の方はまあまあ間違うたこと教えなんだらええぐらいに考え、主として権利闘争、一般的な民主主義闘争の面に勢力をそそぎ、平和委員をつくったり、自衛隊差別反対闘争を組織したりしてきた。しかし、今度新しい職場にとばされてきてみると、勤務時間の問題などを出してもなかなか職場は動かない。おまけに『学力を向上さすのにどこが悪いんな』『研究するのに何が悪い』といわれると、それに抵抗するだけの理論がこちらにない。
 いままで、未組織の労働者にはちと役にたつこともやってきたが、子どもにたいしては何をしてきたのかと反省せざるをえない。こういうこどもを、というスローガンはしゃべってきたが、現実に、子どもをかえてきてはいなかった。
 もしモデル地区が成功したら、全県的にもひろげられていくことは必定で、吉備の問題は、明日の全県の職場の問題でもある」と語った。ここには、勤評・学テ体制のもと、ますます非人間的、反教育的な「教育」が横行するなかで、子どもの現実に立脚し、子どもの人間回復をめざす教育闘争が一日もゆるがせにできぬ課題になっていることが、いままでの運動の自己反省として語られている。
  しかし、注意しなければならないことは、運動の転換ということで、いままでの共闘方式では駄目だ、今度は子どもの教育から、という、機械的、二者択一的な考え方に立つなら、運動は再び停滞に陥ることは火をみるより明らかだということである。 

問題は、「子どもの教育か、権利闘争か」、「教育実践か、組合運動か」などという粗雑な二者択一論にあのではない。いうなれば両方が大切なので挙ある。では、どうすればこの両側面を実践的に統-することが可能なのたろうか。
 この点で御坊小学校の長期にわたる職場実践がわれわれに示唆するところは大きい。御坊小の実践は一見教育実践第一主義のタイプにみえながら、実は従来のの民間教育運動活動動家のスタイルとは違つている。御坊小の実践が、ほんものの教育とは何かを執拗に追求しながらも教育実践第一主義に陥らなかったいらなかったのは、第二章でもふれたように、同じ教育問題をとりをげるにして・も、そのとりあげ方、とりあげる観点、思想がすぐれていたということに求めざるを得ない。つまり、教育という問題をとりあげる場合に、いきなり教材研究や指導技術の研究にはしるのでなぐ、
父母や生徒の教育要求は何かという国民の教育要求を基挺にすえ、しかも、この教育要求を、つねに国民の生活要求の一環としてとらえ、それを集団の要求として親歳していくという教育における大衆路線がつらぬかれているということである。ここでは、教育問題はそもそもの出発点において、運動論や組織論と不可分のものとしておさえられているのである。元来、国民なり人民の要求というものは、生括要求であろうと教育要求であろうとそれには物質的な基盤があり、実践を通じてのみ解決しうるという性質がある。如何に口角あわをとはして議論しても、それだけでは要求は全然解決されないのである。しかも、国民の要求というものは、国民一人一人の主観的な願いや望みにつきるものでなく、国民全体の利益を代表するものであり、したがつて個々人の願いを統一していくことのできる、歴史の進歩の方向をさししめすものである。だからそのような要求は、集団的実践を通じてのみ解決されるといわなければならない。
 御坊小学校の活動家が、このような言葉で、自分たちの実践の基礎を明らかにしているわけではないが、その実践の過程、指紋拒否からはじまる日脳注射の問題、等々二〇数件の問題をみても、それはすべて、教師、生徒、父母たちの基本的人権にかかわるぎりぎりの要求の問題であることがわかる。しかもその際、つねに最低辺の要求、もつとらしいたげられた者の要求に目がむけられていることは、責善教育の思想が、太く一本つらぬかれていることを示すものであろう。
 このように、生徒に学び、父母に学び、その要求を組織していくという観点にたてば、教育要求が先か、生活要求が先かという議論はあまり生産的でないことがわかる。ある職場で、ある地域で、国民教育連動を組厳していく最初の環となる要求が何であるかば、それぞれの職場、それぞれの地域で自主的に解明されるべき問題であつて、他の職場でのやり方を機械的に模倣しても成功するハズはない。要は、どの宴求から出発するにしても、教育要求を生癌要求へ、生活要求を教育要求へと、より広く、より高く発展させていく国民教育運動発展の見とガしと展望をもつているかどうかということである。
 すでに明らかにしたように、今日教育に加えられている権力側の攻撃はきわめて総合的組織的なものである。したがつて、これに抵抗していく国民教育運動の側も、小、中、高、大の諸学校の連携をより強化するとともに、社会教育分野にもおよぶ幅広い国民教育連動の統一戦線が必要なのである。この国民教育連動における、統一戦線の結成という基本路線を、意識的に追求しない国民教育諸実践はひとたび権力の組歳的攻撃をうけれは、ひとたまりもなく押し流されてしまうであろう。こう考えるとき、今日、国民教育連動を組織る点で教師がなさねばならぬ基本的課題は、
 ① 地域に底深く、幅広く国民教育運動を組織していくこと。
 ② この力にさゝえられて、職場をたたかう組合分会とすると同時に国民のための教育を行う教育者集団を組織していくこと。
 ③ 組織された識場の力ゎなかで、教育過程(教科指導、教科外指導をふくめて)を真に民族的、民主的、科学的、集団主義的な国民教育に相応しい形に観織していくこと。
 この二つに要約できるであろう。どこから組織するかの時間的順序は問題ではない。
 では、細坊小の実践は、このような遠大な展望をもち、それを意識的に追求しているといえるたろうか。現在、御坊小の職場には、全国で一般的にみられるような形でのきびい権力側の攻撃がかかつていない。それはれわれにとつて不思議なくらいである。 しか、権力側が簡単に、ロコな攻馨をかけらないでいるということは、裾坊の職場実践がが地道で着実たということにのみよるといえたろうか。おそらく、に手をつければ地域の民主勢力のたたかいに火をつけることけなるという問題があるからではなかろうか。
 御坊という地域は、戦後の日高小作争議にはじまつて、戦後の日高木労のたたかい、西川闘争、自労のたたかいと輝かしい民主連動の伝統をもつているし傲坊小につどう先生たちが、果してどれだけこの地域の伝統に学び、この地域の民主勢力とのていけいを目的意識的に追及しようとしているのか、この点に今後の御坊小の職場実践の発展をわかつカギがひそんでいるように思われる。


1964年
「国民教育運動特別分科会報告書」(完)
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# by tokubetubunkakai | 2015-11-14 16:40
1966年度 
国民教育運動特別分科会報告書

 一九六七年二月十四・十五日の二日間、部数趣・和高教主催で国民教育運動特別分科会が開かれた。この集会は、和歌山県における過去一年間の教育聞争と教育実践の総括をおこない、新年度の基調を検討するためにもたれたものであった。すでに、三度目の集金でもあり、またきびしい情勢のもとでたたかう決意のもとに開かれた集会でもあって、きわめて豊富な教育闘争と教育実践の経験が、事実として提起された。しかも権力による教育支配・きびしい「教育正常化」攻撃のもとで、すぐれた教育運動・教育実践が全県的に広汎に発展していることを確認しあった。このような国民教育運動集会の成功を記録し、さらに運動と実践を発展させるための基調として、まとめるための小委員会を設定し、数回の総括会議を開き、この第三回報告書を用意した。
 集会では、和歌山県下のさまざまな教育情勢・教育運動と教育実践の経験が具体的に提起されていたのでこれをできるだけ集約するようにつとめたが、結果的には典型的な事例を中心として、特徴をあきらかにすることにとどまり、個々の具体的な事実を詳細に述べることはできなかった。この報告書を基調としながらも、それぞれの地域の現実のなかで、経験を分析し、総括し、さらに連動を発展させていきたい。
 この報告書は、従来と同じように、つぎのような基本的観点にもとづいてまとめたものである。
 第一に、現在和歌山県の教育にかけられている権力側の攻撃の実態と特徴は何か。
 第二に、この攻撃のなかで、どのような民主的な教育実践や教育連動がすすめられているか。
 第三に、この攻撃の背景にある政策の本質は何か、このなかで、教師の当面する任務、国民教育連動の課題は何か。
 しかし、権力側の攻撃とこのなかでの民主教育の創造・教育運動の発展は、それぞれきりはなしがたい関連のもとにおかれているので、全体のつながりに注意して検討をお願いしたい。

一  省略

二  省略

二、国民教育運動と教育実践の発展   P12

 前章でのべたように権力側の一層巧妙で多様化した攻撃によって自主的な教育実践や教育研究は大きな困難に直面しており、教育荒廃の現象もー面ではますます深刻なものとなってきている。しかし、このようを事態は客観的にみれば、ぬきさしならない矛盾が一層激化していることであり、したがって民主運動をすすめるに有利を条件が成熟し
ていることを意味してぃる。
 事実、この一年間の和歌山県における教育運動をみれば、かつてないもりあがりをみせた学テ反対斗争、一人一人のきびしい決意のなかで斗われた一〇・二一斗争、歴史的な成功をかちとった全同数和歌山大会と、大きなうねりとなって運動の波は発展している。そしてこのうねりのなかで、地域や職場では、宿日直廃止、・警備員設置、官制研究拒否等々の権利斗争や学習活動、地域や父母とのていけい、地道を教育実践のとりくみが展開されてきた。
 この日常的なとりくみが底深く、たゆみなくつみあげられているところでは、一つのたたかいの波は、さらにより広く、より力強くつぎのたたかいの波へともりあがっていったし、ただ一時的カンパニア的にたたかいの波をもりあげようとしたところでは、一つ一つのたたかいは、一回かぎりのものであり、そこに運動の発展の姿をみることはできなかったのである。
 六六年度における、和歌山県の学テ反対斗争は、全国的にも文部省がやや守勢にまわらざるをえないという状況のなかで、数年問の停滞を克服して、一定の前進をとげることができた。
斗いの結果を示すつぎの数値は、どの地域で斗いの波がもりあがってきているかを端的に示しているとともに、ここにあらわれないさまざまを抵抗が全県的とりくまれた。
 指定校テスター拒否  七校(西牟婁四校・日高三枚)
 完全返上       三十九校(西牟婁三十五校・東牟婁四校)
 希望校のテスター拒否 四十五校(東牟婁二十校・日高十一校
                 西牟婁八校・海草六校)
 不完全実施    全県的にひろがる。
  (一部教科返上・日をづらしたり、氏名番号不記入など)




 昨年度の御坊地区・竜神地区における先進的な斗いの経験が今年度はいくつかの地域にひろがり、学テがもたらした教育の荒廃、子どもへの悪影響の実態、さらに行政当局がテストをおこなうことの不当性、教師の教育権、といった問題が、教師たちだけでなく、父母たちもまきこんで話しあわれ、深められていった。
 こうした教育のあり方にまでかかわって権力の教育政策を問題にしてきた地域では、その力を基礎にして、一〇・二一斗争を有利に斗うことができた。
一〇・二一斗争は自らの賃上げ要求を中心に、ベトナム反戦という国際的を政治斗争として、広範にたたかわれた。
和新組・和高教はこの斗いに参加し、和教組は半日休暇斗争の戦術を変更したが、権力の激しい攻撃と圧力の中で統一行動に参加した。
 このたたかいのなかで、「先生、今度のストはわしら親がせんなんストみたいだ、がんばって下さい。困ったことがおこったら電話してくれ、学校へ助けにゆくから」という父母まであらわれたところもあり、一般的にみても勤評斗争当時逆ストをうった、学校へおしかけてきた父母とは、父母の考え方もかなりかわってきていることが注目される。
われわれは、このような大きな運動のうねりの底を流れている、地道な国民教育創造の斗いが、どのようにとりくまれてきたか、以下特徴的な事例についてみてみよう。

(1) 朝来の子どもと教師たち
一九六三年四月、旧朝来中学校では、全員十一人の職場で、校長・教頭をふくめて八人の教師のいれかえがおこなわれた。五九年四月、勤評斗争後の報復人事で、十人中七人が勤評異動させられて以来の大異動であった。
 地域に大きな未解放部落をかかえ、五八年の勤評斗争のときには一ケ月におよぶ子どもたちの同盟休校がうたれ、県下で盲聾学校を除き、一番最後まで勤評不退出で斗ったいわゆる拠点地域だけに、教委側も、この中学への人員配置については、色々と慎重な配慮をおこないつつ、自己の意志を貫徹しようとしてきた。
 新たに赴任してきた八人の教師たちは、都市部のいわゆる「ちゃんとした学校」で勧めてきた真面目な人達であり、組合員であり、教育技術についても経験をつんだ中堅クラスが多かった。けれどもこれらの人たちは、いわゆる「朝来教育」の伝統からはきりはなされていた。 責善教育を中心にすえ、父母・教師・生徒の三つの集団が統一の方向をまざしながら、そのなかでうみ出してきた「朝来教育」については、あまり
関心をもたなかったし、それを積極的にひきつぐ人も職場には残されていなかった。あと一年半もすれば統合で、この学校も廃校になる、その間のおもり役という空気もないではなかった。
 ところで、新しい教師たちの目にうつったものは、「普通の学校」では考えられをいようないくつかの出来事や事実であった。教室へ行くと、教皇と教室の間の壁に穴があいて、向う側の教室が見透かされたし、床にはところどころ穴があいていた。黒板には、卑わいなほりこみがしてあるし、一年生で煙草を吸う生徒さえいた。授業にいけばノートを開かない子どもエスケーブする子どもの数が目立ち、なかには授業中に鏡を出して、くしをいれる子どももでてくる始末、「一体いままでの教師は何をしてたんな」「まるで教師はなめられているではないか」「もっとピシッとしめをあかん」多くの教師はそう考えた。
そこでこの現状に対処するための職員会議がもたれ、新たに「生徒心心得」をきめ、断固とした態度で生徒に臨むことになった。
帽子をかぶって登校すること、名札をきちんとつけること、教師が教室へくるまでに教科書を机の上に開いておくこと・・・教師たちは、前任校でやってきたことを、そのまま上から強制しようとした。
 また学力指導についても、おきまりの奈良文庫テストと校内テストを隔月におこなうことにきめ、父母から五十円の採点科を徴収することにした。
 「非行取りしまり」と「学力向上」という権力の教育政策の二つの柱が、ここでも忠実に実行されようとしたのである。
けれでも、このような方針は、朝来に関するかぎり、一学期ともちこたえることはできなかった。最初のうちは、「生徒心得」に従わぬ生徒を教師はびしびしとりしまり、なぐりつけることさえあった。だが子どもたちの反感は次第につのり、教師への不信は根深いものとなっていった。
 二学期になると、授業妨害はロコツな形であらわれてきた。
教師が黒板へ字を書いている間に、うしろからなげ玉をなげつける。
誰か!、とどなっても、誰-人こたえようとしない。プリントを配れば列のうしろまでとどかず、生徒の数だけ配っているのに、半数以上の生徒がくださいとやってくる。授業中に紙飛行機がとび、集団エスケープ、掃除のサポタージュ、毎日、毎日、教師をてこずらせるようなことが、ひんぴんとおこってくる。
 女教師は職員室で泣き、授業打いきたくないとわざと遅れる人もふえてきた。四十五分の授業がもたないのである。
 秋になって、自分の子どもをなぐられた父母から、先生ら子どもを罪人あつかいしているのと違うかと、強硬な抗議が出されたが、それでも、自分たちが聞達っているという気持より、ここの子どもらひねすぎているのではないか、という気持の方が強かったと一教師はこの頃をふりかえって語ってぃる。
教師集団の間でも意見がわかれ、三つ位のグループにわかれて、大げんかをしたこともあるという。従来からいた三人の先生は、抑圧的なやり方に反対し、自主的なホーム・ルームや日記指導の重要性を説いたが、甲論乙駁、意見はまとまらなかった。十一月になって、校長は父母たちの前で私たちの力では何ともようしません、何としたらいいでしょう
か、と父母にたずねる始末となった。
 部落懇談会にいけば、先生ら困ったときだけやってきて、なんな、かみしもぬいでこい、という調子でやられ他方教委の方は教委の方で、この頃から管理体制のしめつけを強めてきた。飲みたくないという生徒が半数もあるのに、強引に脱脂粉乳を飲ませようとしてきた。しかし、もう教師の方もいささかやぶれかぶれで、そんなに教委が飲ませたかったら、自分で出てきて飲ませてくれ、と抵抗するようになった。道徳
教育についても、指導主事がきて、研究授業に文句をつけた。今の授業は学習指導要領のどの項目に該当するのか、どこに指導の重点があるのか、先生らもっと勉強せよとえらそうなことをいったが、そんんことをいうのなら、この学校へきて実際に指導をしてみろ、ということになり、教師たちには一種のくそ度胸のようなものができてきたという。
 六四年四月になって、朝来中学校は、岩田・生駒・市の瀬の三中学と合併し、上富田中学校となったが、当分の間、各校舎で分散授業ということになった。
 統合にともそって、各校舎間の生徒交流がやられたが、これが朝来の子どもたちの「非行」に油をそそぐことになった。岩田校舎では、鉄筋の立派な建物の中で、けい光燈がつき、よい机で、いい恰好の制服を着て、子どもたちは勉強している。ところが朝来校舎は旧兵舎をもらいうけてつくったもので、もう修繕のしようがない程ガタガタになっている。同じ上富田中学校の生徒でありながら、こんな差別があっていいのか、岩田の奴らあんまり調子ばるな(いい恰好するな)というわけで、他校の生徒をなぐる者がでてくるし、自分の学校の校舎はもうこんなものは早くつぶしてしまえと、破壊活動はますます激しくなる一方である。
一学期中にガラスは二〇〇枚ぐらいわれた。講堂の壇上には毎日のようにいやがらせの汚物がおかれてあり、ビールを飲む者・異性交遊と目にあまるものがあらわれてきた。新校長が聞きしにまさる状態と嘆いたほど、とにかく手のつけられない状況になってしまった。
しかし、こうした中でも教師たちは何とか子どものつながりたいと真面目に苦しみ真面目に考えた。教委の側も九月には、特別にこの土地の寺の出身で活動家のF先生を急遽この学校へ転勤させ、新たに特別補導の教員一名もふやした。しかし生徒たちは「先生はわれわれをふせこみにきたのか」とすぐさまその意図を見抜き、反抗活動は容易におさまりそうにもなかった。
こうしたなかで、職場では部落問題研究所の東上氏を招いて話を聞いたり、山之内中学校・八尾中学校の見学をおこなったり、現状打開のための教育研究の努力がつみあげられていった。
「非行児こそ宝である」という思想に接したり、仲間づくりの大切さについても学習がやられた。こうした努力を重ねるなかで、教師たちは、改めて同和教育の重要さを再認識させられていった。
そして、一、あくまで最底辺の子どもの要求を大事にしなければ、ほんものの教育はできないこと。二、教科の進度を気にするよりも子どもたちによくわかる授業をやらねばならない、というごく平凡ではあるが、しかし実行するとなると、大変勇気と困難をともなう同和教育の貴重な原則ともいうべきものが、単に頭のなかてわかるというだけでなく、次第に身についた確信となっていったのである。
そして、教委や一部の父母たちが何といおうと、この現実を打開する道は教師が徹底した民主主義の立場に立って、地域の生活現実に立脚した教育を実践する以外にないことがあきらかとなってきた。
こうした境地にいたったとき、そしてF氏を中心として子どもたちの生活と結びついた仲間づくりの実践が、ぼつぼつはじめられたとき、はじめて、この絶望的な状況のなかから、ようやく問題解決への希望が芽生え、光がみえはじめてきたのである。
教師が集団としてのまとまりをもちはじめると、不思議にそれは生徒にも反映してきた。
 生徒たちの間にも、自主的サークルがうまれ、学力の遅れた「もんち」を高校へいかす会もつくられ、実際に仲間たちの援助のなかで、高校へ進学させることに成功さす実践までうまれてきた。
 かつて、学校へは下駄ばきできて、わいしゃつをずぼんの外に出し、肩をふって歩き回り、暴れまわった。一人の生徒は、卒業して就職するにあたってつぎのように書いている。「僕の中学生活は何といっても仲間づくりときりはなすことができなかった。・・・二年の三学期、ある事件で僕らの担任はかわった。そして僕らの新しい担任は仲間づくりを教えてくれた。
そのとき、僕は新しいものに気がつきはじめた。自分中心に考えることを馬鹿らしく、いやに思えた。そして何よりも自分自身の弱さを感じた。
先生は班というものをつくった。僕は班長となった。
僕は自分の班に蜂の巣などという名前をつけ、僕ははりかった。
僕はそのときから、いたずらの楽しみでなく、本当の楽しみがわかってきた。僕は学校が好きになった。」、この子は早く父親を失い、その寂しさを反抗でまぎらし、高校へゆける生徒のも反感を抱いていた。しかし、彼はその作文のおわりをこう結んでいる。
「僕たちの道は別だけど・・・・卒業しても仲間づくりは無くなるのではない。何時までも何時までも続くのだ。」
 もちろん問題は一挙に解決したわけでなく、統合後も問題は残りまたいくつかの事件が起ってはいるが、朝来校舎の教師たちが、悪
(つづく)
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# by tokubetubunkakai | 2015-11-13 16:42